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  • どこにも届かなかった声。

    あの頃の私に、誰か気づいてほしかった。

    夫は病名がついてから、私の毎日は ”支えること” 一家の大黒柱になりました。身体も心も限界で、気づけば足は悲鳴をあげていました。それでも、立ち止まることはできなかった。

    “痛み止めでごまかした7年間”それが私の選んだ道だった。

    私は生まれつき、先天性股関脱臼というハンディを抱えていました。痛みで夜も眠れず、それでも朝が来れば仕事に向かう、普段の生活でも、長時間の歩行や無理な動きは痛みにつながる状態。

    それでも、子どもの送り迎え、買い物、仕事、保育園や地域の行事……自分にムチを打って動き続けていました。

    当時は、足が痛くて動けない日もあった。でも誰にも言えなかった。「弱音を吐いたら、何も回らなくなる」ーーそう思いながら、私は痛みをごまかし、ごまかし、毎日を生きていました。

    支援の枠から、こぼれ落ちた現実の中で

    この頃、住んでいた地元の議員さんから「困っていることがあれば」のハガキが投函されていた。藁にもすがる気持ちで、私は夫のこと支援のことをハガキに書き投函しましたが、その後返事は来ませんでした。

    保育園では、「離婚すれば手当がもらえる」「税金も安くなる」と話す人もいて、”形だけ離婚”を選ぶ人もいました。確かに”母子家庭”になった人たちへのもの。

    じゃあ、私みたいに夫が長患いで働けず、私ひとりが家庭を支えているケースには?制度のどこにも当てはまらない現実。夫が「病人」であっても私は「ただの妻」だった。

    誰も守ってくれない。

    スマホもネットもなかった時代

    今なら、検索すれば情報が出てくる時代かもしれません。でもあの頃はスマホもなく、ネットで調べる手段もありませんでした。「誰に、どこで、何を伝えれば助けてもらえるのか」その方法すら、わからなかったんです。

    孤独と不安に包まれながら、でも誰にも言えず、言っても何も変わらない気がして。そんな日々を、私はずっと、ひとりで踏ん張っていました。

    今、もしあの時の私に声をかけられるなら

    「あなたは、ちゃんと頑張ってるよ」「届かないように見えても、きっと誰かが見ている」そう伝えてあげたい。当時の私は、”支援される側” にもなれなかった。でもだからこそ、今こうして発信できることに意味があると思っています。

  • 仕事に救われた日々

    家庭での緊張感と、会社での安らぎ

    家庭では常に気を張り詰め、子どもたちの前では笑顔を絶やさないように努めていた。そんな中、会社での時間だけが、ほんの少しだけ ”自分らしくいられる場所” だった。お客様との何気ない会話や仕事に集中することで、心のバランスを保っていた。

    夫の病気と新たな決意、子供の病気から…

    ある日、子供がおたふく風邪にかかり、その看病をしていた夫も同じ病気を患い、入院することになった。

    診断結果と将来への不安

    入院中の診断で、夫は以前から感じていた身体のふらつきや指の震えを医師に伝えた。そして、精密検査の結果「脊髄小脳変性症」と診断された。初めて聞く病名に戸惑い、当時はインターネットも今ほど普及しておらず、情報を得る手段が限られていたため、ただただ不安が募った。

    病名を伝えられたあと、医師からは「詳しく検査をした方がいい」と言われ、別の病院を診察や検査や入院の話も出た。

    しかし夫は、精神的にもかなり疲れており、人と関わること自体が、すでに負担になっていたのかもしれない。

    知らない場所、知らない人たち、そして次々に説明される現実…。それを受け止めるだけの心の余裕が、もう残っていなかったのだと思う。

    だから私たちは、通院で検査を受ける道を選んだ。「治療のため」よりも、「夫の心を守るために」選んだ道だったのかもしれない。

  • 夫に異変から始まった、私の人生の転機

    プロローグ:気づかぬうちに始まっていた転機

    最初は、ただ「腰痛かな」と言っていた夫。

    電車での移動や駅の階段や、いつもの通勤ルートでも「なんだかふらつく」と口にするようになっていました。

    病院に行っても「腰痛でしょう」と言われるばかりで、症状は良くならず。私はただ、不安だけが日に日に募っていきました。

    夫自身、精神的に悩んでいたようでした。当時は今のように心療内科が身近ではなく、精神的な不調を相談できる場所も限られていました。「精神科に行くのは特別なこと」ーーそんなふうに思われがちな時代でした。

    そんな中で彼は少しずつ心を閉ざしていき、私は「いつかこの人が電車に飛び込んでしまうんじゃないか」という恐怖と、毎日向き合っていました。

    「今、この人がふっといなくなってしまったら」そんな最悪の想像が頭をよぎってしまうのです。

    何もできないまま、ただそばにいる日々が続きました。当時は、テレビで自殺のニュースが流れるたびに、心臓がぎゅっと掴まれるような感覚に襲われていました。

    「もしかして…うちの人ではないか」名前が出るわけでもないのに、そんなふうに思ってしまう自分自身にも苦しさを。

    気づかれないように、でも、心の中でいつも怯えていたのです。

    しかもその頃は、子どもがまだ小さくて。私の不安定な気持ちが、そのまま子供にも伝わってしまうような気がして、「強くならなきゃ」「平気なふりしなきゃ」と、無理を重ねていたのを覚えています。

    心の中の本音

    強くならなきゃと思っていたけど、本当は毎日「逃げたい」「助けてって言いたい」って心の中で叫んでた。でも、誰にも言えなかった。

    その時支えになったこと

    そんな毎日の中でも、子どもが無邪気に笑う姿にだけは救われていた。

    誰にも言えなかった日々

    あの頃の私は、毎日がいっぱいいっぱいで、自分の心の居場所なんてどこにもなかった。今思うと、会社に行く時間が、唯一の”逃げ場”だったのかもしれない。

    あの頃は誰にも言えなかったこと。でも今、ようやくこうして言葉にできるようになった。今、もし心の中で揺れている誰かがいたらーー。この言葉がそっと寄り添えたら、嬉しく思います。

  • tomo「人生、思い通りじゃなくて上等!この言葉に込めた想い」

    ごあいさつ

    はじめまして、tomoです。波瀾万丈な人生を歩んできた2児の母です。

    人生の転機

    子育て・仕事・介護・病気・ローン…いろんなことが重なった時期もありました。

    なぜブログを始めたのか

    この経験が、今も誰かの”希望”に変えられるかもしれない。そう思って、ブログを書き始めました。

    読者へのメッセージ

    私のストーリーが、どこかで誰かの背中をそっと押せたらうれしいです。よかったら読んでくださいね。

  • Hello world!

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